例えば、弁護士の土屋公献は2002年までは「拉致問題は存在せず、
国交交渉を有利に進めたい日本側の詭弁である」
「朝鮮側の正当な主張をかわそうとしている。破廉恥な行動と言わざるを得ない。」と、
講演で繰り返し主張していた。
土屋は後に「裏切られたという思い、強い憤りを感じる。北朝鮮政府の言うことを信じ、
大勢の人々に対し様々な講演で拉致は無かったと説明してきたことを、申し訳ないと思っている」
団体では社民党が党のホームページに「デッチ上げ」と事件の捏造を断定する趣旨の,
北川広和の論文を載せていた。
北朝鮮による日本人拉致問題を右翼や政府による捏造と信じて疑わなかった者も多く、
一部では朝鮮人差別を原因とした捏造であると信じていた者もいた。
しかし、北朝鮮による拉致が公になった後の、日本政府の動きは鈍かった。
拉致被害者の兄の蓮池透によれば、被害者の情報を求めに警察庁に訪れても、
「捜査上の秘密」と何も得られず、また外務省の嘆願に訪れても「誠意をもって取り組む」と、
単なる言葉のみだけにすぎなかった。また法務省の人権擁護局に至っては「仕事の範囲外」と、
まともに相手にしてくれなかった。拉致事件解決の鈍い動きの反面、この時期の日本国政府は、
北朝鮮への食糧支援の動きは積極的であった。
こうした状況を打開するため、救う会は政府機関や与党自民党の前で座り込みをする活動を行った。
しかし政府は、2000年、田中真紀子等コメ議員たちの援助積極論の力により、
北朝鮮への50万トンもの国内米の支援を決定した(費用は1100億円)。
なお、このときの畑恵参議院議員は救う会の活動を「暴徒と化している集団」と呼んでいたという。
また、野党も、社民党党首土井たか子は「食糧援助と拉致疑惑は切り離すべき」と主張。
2001年10月30日の参議院内閣委員会にて、出された質問「拉致をテロと認識するか」に対し、
福田康夫(内閣官房長官)は「拉致はテロではない」と、答弁した。
この様な拉致事件への消極的な政治対応が一変したのは、
2002年1月に、北朝鮮工作船による九州南西海域工作船事件が発生。
さらに、この年のジョージ・W・ブッシュアメリカ合衆国大統領の一般教書演説にて、
「日本人拉致疑惑の早期解決を求める決議」が採択され、
4月25日には「新拉致議連」が発足する。
その後の動きは速かった。
2002年9月17日、小泉純一郎首相(当時)が北朝鮮の平壌を訪問し、
した(日朝首脳会談)[61]。
元北朝鮮外交官・太永浩によると、小泉首相は拉致を認め被害者を帰国させれば100億ドルを払うと約束。
その席で北朝鮮側は、日本人13人を拉致したことを認め、
「遺憾なことであり率直におわびしたい。私が承知してからは関係者は処分された」と述べ、
「実行者は一部の特殊機関の者による行為」とし、関係者はすべて処罰したと説明。
その後の交渉で、北朝鮮が生存していたとした5人の拉致被害生存者については、
一時帰国を条件に2002年10月15日に帰国が実現した。
交渉は外務省アジア大洋州局長の田中均(当時)と国家安全保衛部第一副部長の金詰(キム・チョル)という偽名を名乗る人物(正体は副部長の柳京(リュ・ギョン))の間で行われた。
5人の帰国後、日本政府は世論や拉致被害者家族会の要望などにより、
一時帰国した被害者を「北朝鮮へ帰す」ことを拒否し、5人の家族の帰国も要求する方針をとった。
このため、北朝鮮側は「日本政府に対し約束違反だ」と主張。
このような北朝鮮政府の抗議により、その後の交渉は、中断した。
参議院議員のアントニオ猪木が、SAPIO2015年2月号のインタビューで、
「拉致問題担当大臣が10人以上も代わっているようでは、
北朝鮮側もまともな交渉をすることはできない」
「必要があるのなら、朝鮮労働党幹部と信頼関係を築いてきた私をいつでも使えば良い。
選挙で拉致問題のパフォーマンスをしている議員とは違い、自分は命がけでやる」と宣言した。