政治・経済、疑問に思うこと!

より良い日本へ願いを込めて。

戦争の悲惨な傷跡は今も残る。

満州では、敗戦後、自分たちを守ってくれるはずの関東軍は撤退してしまい、

多くの開拓団が孤立してしまいました。

日ソ中立条約を破って侵攻してきたソ連軍のほか、

いままで支配されていた現地人も一気に暴徒化し、

敗戦国の弱体化した開拓団に襲いかかります。

そこには略奪・暴行・虐殺・強姦など、あらゆる無法がまかりとおりました。

彼女たちの隣の村の開拓団は、この無法に耐えかね、集団自決で全滅しました。

黒川開拓団の中でも集団自決の声が高まりましたが、リーダーの一人が、

「人の命はそんなに簡単なものじゃない」と主張して、思いとどまります。

そしてリーダーたちは、たまたま団の中にいたロシア語のできる人間を通じて、

近くに進駐してきていたソ連軍に、保護を求める交渉をしました。

するとソ連軍は、兵の暴行や現地人の襲撃から団を守り食糧や塩を提供する代わりに、

若い女性を将校の「接待」役として差し出せという条件を付けてきたのです。

つまり挺身隊のような形で、決まった女性たちを交代で慰安婦として差し出せということです。

それはソ連軍側から一方的に強制されての行為ではなかった。開拓団としての取引きでした。

夫や子どものいる女性には頼めないということで、

結局、数えで18歳から21歳までの未婚の女性が15人選ばれました。

「このままでは集団自決しかない。

何とか全員が助かって帰国するために、団に身を預けてくれないか」と、必死の説得が行われます。

「あなたたちには団を救う力がある。将来には責任をもつ」とも言われたといいます。

 

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女性たちが「絶対いやです」と拒否するのは当然です。

そんなことをするくらいなら、死んだほうがましと、拳銃をもって飛び出した女性もいたそうです。

結局、何百人もの命を守るためには断りきれず、当時21歳だったリーダー格の女性は、

「日本に帰ってお嫁に行けなかったら、お人形の店でもやって一緒に暮らそう」

そう言って、全員をなだめたと言います。

連れて行かれたべニア板張りの「接待場」では、女性たちは布団の上に並んで横たえりました。

彼女たちの言葉を借りれば、「辱めを受ける」あいだお互いに手をしっかりと握りあい、

泣きながら暴行に耐えたそうです。

覚悟していたとはいえ、「助けて、お母さーん、お母さーん」と泣き叫ぶ女性もいました。

暴行の事後処理として、彼女たちは医務室に行き、

性病や妊娠を防ぐために薬品を管で体内に注いで洗浄を受けます。

彼女たちより年下の女性が、泣きながらその冷たい薬液を注ぐ仕事を手伝ったという証言も残っています。

こうして、何カ月もの過酷な試練に耐えた結果、黒川開拓団は暴徒の襲撃から守られたのです。

ただ15人の中の4人は、性病や発疹チフスにかかり、帰国できないまま命を落としました。

集団自決をする開拓団が相次ぐ中で、総員662人の開拓団のうち451人が生きて帰れたのは、

まさに彼女たちの犠牲のおかげだったと言っていいでしょう。

90歳近い高齢になりながら、70年間も封印してきた辛い記憶を、よくぞ語り継ぐ気持ちになってくれたと思います。

それにしても、彼女たちは、その辛い記憶をなぜ封印してきたのでしょうか。

それは思い出したくもない辛い記憶だったからでしょう。

しかし、思い出したくもないその「辛さ」が、じつはあの忌まわしい凌辱の「辛さ」だけではなかったからなのです。

本来なら土下座してでも感謝しなくてはならないはずの彼女たちの行為に対して、

心ない中傷や差別的な言葉が仲間内でそこここでささやかれ、

それが彼女たちにも感じられたからでした。

そうした言葉は、じつは辛い「接待」が行われている当時から、すでに囁かれていたといいます。

 

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国に帰ってからも、ほかの女性の身代わりで「接待」の回数が多くなった女性が、

仲間の男たちから「○○さんは好きだなー」とからかわれたり、

「(体を提供しても)減るもんじゃなし」などと言われたりしたといいます。

これらの言葉は、凌辱の体験以上にどれほど彼女たちの心と体を傷つけたでしょう。

そして、「露助(ソ連兵)のおもちゃになった人」「汚れた女」といった秘かなレッテル貼りが、

人びとの間に根強く残っていたのです。この「接待」の事実は、女性たちの将来のためにも良くない、

団の恥でもあるとして、開拓団もひた隠しにしてきました。

昭和58年には、「接待」のことが実名を伏せて雑誌「宝石」に書かれましたが、

地元の書店では人目に触れないよう、開拓団関係者によって買い占められたといいます。

このように、彼女たちが「辛い記憶」を封印してきたのは、

あの忌まわしい体験を忘れたかっただけでなく、

それ以上に、いわれなき中傷や差別という「辛い体験」を思い出したくなかったからでしょう。

そこに開拓団としての意向も働き、事実は封印されてきたのでした。

しかし、そこで声を上げた女性がいます。女性たちも高齢になって次々と世を去り、

このままでは自分たちの身を挺した体験が埋もれてしまうと、考えたのでしょうか。

リーダー的な存在だった女性が、「このままあの事実をなかったことにはできない」と立ち上がり、

昭和56年に、現地で亡くなった4人の女性を慰霊する「乙女の碑」が建てられました。

彼女たちの語り継ぎの決意は、ようやく実りはじめているようですが、遺族たちにとっては依然として、

釈然としない思いが残ります。経緯を示す碑文は立派なものができましたが、

そこには15人の乙女の名は1人も記されていません。

ひめゆりの塔」や「原爆の碑」には犠牲者の名が記されて、

一人ひとりその尊い犠牲に敬意が払われています。

遺族の中には、開拓団の命を救うために尊い犠牲を払った彼女たちの名は、

もっと誇りをもって語られていい、という人もいるようです。

しかし、「誇り」というにはあまりに悲惨な体験です。

私の願う語り継ぎによる「こころの相続」は、どのように語り伝えられるのでしょうか。

(五木 寛之)