2日の総裁選立候補会見で菅長官は自身の生い立ちを紹介。
「私の原点について少しだけお話をさせていただきたいと思います。
雪深い秋田の農家の長男に生まれ、地元で高校まで卒業をいたしました。
卒業後すぐに農家を継ぐことに抵抗を感じ、就職のために東京に出てまいりました。
町工場で働き始めましたが、すぐに厳しい現実に直面をし、紆余曲折を得て、
2年遅れて法政大学に進みました。
いったんは民間企業に就職しましたが、世の中が見え始めたころ、
もしかしたらこの国を動かしているのが政治ではないか、そうした思いに至り、
縁があって横浜選出の国会議員、小此木彦三郎先生の事務所に秘書としてたどり着きました。
26歳のころです」
農家の長男として育ったが、実家はいちご農家。
菅長官の父和三郎氏は、本人の名前から付けた「ニューワサ」というブランドで、
秋ノ宮いちごを売り出した。
豪雪地帯の寒冷地ゆえ出荷を遅らせ、これが大成功する。
いちご組合の組合長で町会議員の経験もある。
決して貧しい農家ではなかった。
本来なら長男なので後を継ぐはずだが東京に出てきた。
この辺りにも菅長官の性格の一端が垣間見られる。
それでも、菅長官はいつかは秋田に帰ることも考えていた。
菅氏は次のように振り返っている。
「三十歳前後のとき、事務所を辞めて秋田へ帰る、と切り出したのです。
そしたら、小此木さんが唐突に『野呂田芳成(元農水大臣)さんの参議院選挙の応援で秋田に行くから、
お前もついてこい』と言って、連れていかれた。で、秋田に着いたら、お前のうちに行くって言い出した。
そうして両親に会い、『もう少し鍛えさせてもらえませんか』と頭を下げるではありませんか。
とうぜん両親は『お願いします』と答えるほかない」
(「総理の影 菅義偉の正体」より)
小此木氏の押しが無かったら今の菅長官はいなかった。
菅長官は会見で、
「この国難にあって、政治の空白は許されません。一刻の猶予もありません」とした上で
「安倍総裁が全身全霊を傾けて進めてこられた取り組みをしっかり継承し、
さらに前に進めるために私が持てる力を全て尽くす覚悟であります」と、
安倍政権の政策を継承する考えを明らかにした。
安倍政権の負の遺産「森友・加計学園問題」や首相主催の「桜を見る会」問題について問われると、
「森友問題はすでに結論が出ていることであります。
加計学園問題についても、法令にのっとり検討が進められてきたというふうに思っています。
『桜を見る会』については国会でさまざまなご指摘があり、今年は中止して、
これからのあり方を全面的に見直すことに致しております」と答弁。
もう全て終わったことと述べた。
しかし、「森友問題は結論が出ている、加計学園問題は検討が進められてきたと思っています」
と、差がある。
「加計学園問題」は今後、何か出てくる可能性、もしくは学園側の問題で叩かれる可能性もあるので断定はしない。
菅長官も相当筋が悪いと思っているようだ。
そしてし、あの佐川宣寿氏や太田充氏など、安倍政権下で引き起こされた不祥事で、
安倍総理を守る為なら、廃棄、隠ぺい、虚偽答弁すら厭わなかった官僚達を、
軒並み出世させてきた内閣人事局を仕切っているのが菅官房長官。
改ざんが始まる直前の2月22日、佐川宣寿理財局長(当時)、
中村稔総務課長(現英国公使)、太田充(現事務次官)と会っていたのが菅官房長官。
安倍総理と菅長官は共犯なのだ。
逮捕起訴された河井克行前法相と菅原一秀前経産相を全力で応援してきたのも菅官房長官。
全てを引き継ぎ、変わらぬ体制であれば、相変わらず最悪の政権が続くこととなる。
しかし、安倍政権の負の部分を削ぎ落し、クリーンな政治が見えれば菅総理にも期待はできる。
全てを引き受け守るのが官房長官の役目。
良い悪いは別として、あれだけの問題を抱えていた安倍政権を支えてきたのは菅長官。
菅氏が長官でなけれ安倍政権はここまで持たなかっただろう。
その手腕を認めているから、二階幹事長も麻生大臣も押したのだ。
安倍総理よりも実務的に冷静に実直に対応できる。
官房長官として長期に渡り手腕を発揮してきたが、安倍政権も末期症状が見えている。
菅長官は総理にならなければよかったと後悔しないように職務に真摯に務めることだ。