政治・経済、疑問に思うこと!

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日本学術会議事件と京大滝川事件。

1932(昭和7)年10月、法学部教授瀧川幸辰は、

「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」という講演を東京の中央大学で行った。

トルストイの刑罰論の紹介が中心で、瀧川はトルストイの説を紹介しただけだったが、

いつのまにか、国家の組織が悪いから犯罪が起こる、犯罪は国家に対する制裁である、

などと語っていたという噂が広まり、当局に伝わった。

その直後に共産党員・シンパの判事や裁判所職員が摘発された「司法官赤化事件」が発覚。

文官高等試験委員も務めていた瀧川教授は、

マルクス主義的思想」を持った大学教授に仕立て上げられ、

「赤」「左」の代表的人物のひとりに祭り上げられていく。

 

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翌1933年2月1日の衆議院予算委員会では、政友会の宮澤裕(宮澤喜一の父)が、

実名こそ出さないもののそれとわかる形で東大の牧野英一、末弘厳太郎、有澤廣巳、

京大の瀧川教授の4名の「赤化教授」罷免を要求。

文相の鳩山一郎は調査と処置を約束した。

文部省は、京大総長の小西重直に対し、瀧川への辞職勧告もしくは休職処分を行うよう働きかけた。

だが小西総長は文部省の要求を拒絶する。

法学部教授会は文部省を非難し、「研究の自由」を訴える声明を発表。

また、瀧川の処分を強行した場合には総辞職で対抗することで一致した。

しかし、鳩山文相は、文官分限令の規定に基づき、文官高等分限委員会に瀧川の休職処分を諮し、

5月26日、総長の権限や大学自治の慣行を無視し、瀧川教授の休職が発令された。

さらに、滝川教授の著書『刑法読本』と『刑法講義』が発禁処分とされた。

瀧川享受の処分が下されるや、法学部長宮本英雄は教員一同の辞表を小西総長に提出する。

法学部の学生は教授団を全面的に支持し、1500名が結集して学生大会を開いた。

抗議の動きは全学に広がり、翌日、経済学部の学生は授業ボイコットに突入。

6月6日に最初の全学学生大会が開催される。

抗議の声を外にひろげるため、各帝国大学に応援要請した。

 

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しかし、要請を受けた東大の反応はあまり冴えず、拒絶した。

背景には、東大の小野塚大学総長と鳩山大臣は、

京大の抗議運動に東大法学部が呼応しないことを条件に、

東大の「赤化教授」処分を見送るとの密約があったとされる。

動かない法学部をよそに、東大生の運動は活発化した。

参加者3000名ともいわれるデモが発生、警官50名が構内に駆けつけて検束した。


‘@歴史は繰り返される。

時の政権が強権を発揮するとろくなことにならない。

政治家として、理由を説明できないことをしてはならない。

ウソを付いてはならない。

ウソは国民を不幸へ導く。