1935(昭和10)年2月18日、まだ明治憲法下での貴族院本会議で、
元陸軍中将だった菊池武夫議員が、東京帝国大学名誉教授の美濃部達吉議員の、
「天皇機関説」を「反逆だ」として批判。
これをきっかけに、軍部や右翼がこぞって「天皇機関説」攻撃をはじめ、
美濃部教授は不敬罪の疑いによる取調べを受け、
すべての公職から追放され、貴族院議員を辞職する事態にまで発展。
美濃部達吉の著書は発禁処分とされた。
しかし、天皇機関説は、1935年になって美濃部教授が突然突飛な学説を唱えはじめたものではなく、
もともとは美濃部教授の師匠である一木喜徳郎東京帝大教授が唱えたもので、
後に美濃部教授によって理論的に発展させられ、1912(大正元)年の「憲法講話」に発表。
政治家も官僚も、当の天皇でさえも、この天皇機関説を前提に国家というものを捉えていた。
憲法を学ぼうともせずに、天皇は神だ、不可侵だ、これに逆らう学者・学説は学匪だと喧伝。
都合の悪い人間は国家の敵だとあげつらう。
その後、1939年から1945年までの6年余り、第二次世界大戦に突入する。
‘@歴史は繰り返される。
時の政権が強権を発揮するとろくなことにならない。
政治家として、理由を説明できないことをしてはならない。
ウソを付いてはならない。
ウソは国民を不幸へ導く。