池袋暴走事件の裁判がはじまり、被告が無罪を主張したことで、
感情的に批判している人が多いと批判する人たちがいる。
「被告が無罪と主張するのは当たり前。
推定無罪で、検察側が被告の主張の矛盾をひとつひとつ切り崩して有罪になる。
それができなければ無罪になる。これが公平な裁判の流れ。
最初から有罪ありきで裁判を進めるべきではない。」と主張する。
そして、そういう人たちも、ホンネをいえば、
「私もあの被告に情状酌量の余地はないと思っています。
高齢だからといって事実上の終身刑になったとしても、同情はしません。」と述べる。
確かにおっしゃる通りだ。
しかし、私たちは裁判官でも弁護士でもはない。
裁判の過程の話と国民感情を同一に述べることには無理がある。
明らかに有罪だと思うような件でも、証拠固めができないため無罪となることもある。
裁判の結果は結果として、そんな時には当然怒りを覚える。
国民の思い通りにいかない裁判は多々ある。
理不尽だと思いながらも国民は我慢している。
そして、相手の思惑通り、国民の記憶は薄れていく。
そして、時として法改正も進まない。
国民が感情的に批判しても裁判の結果が変わる分けでは無い。
量刑に多少の荷減重はあるかもしれないが、国民感情で判決が覆されることなない。
また、そうであってはならない。
明らかにおかしい、許しがたいことに声を上げることに問題があるのか。
もちろん、過度な攻撃や直接関係のない身内などを攻撃するのは論外だ。
これは日本人に限ったことではない。
しかし、多くの日本人は声を上げるだけだ。
米国などでもデモが起き暴力や略奪行為が多発する。
むしろ、認めないからこそデモが大きくなっているのではないか。
最初から、適切に処分して、大統領も真摯に認めれば騒動は大きくならない。
日本人には人を殺しても私は無罪だと主張するような精神は持ち合わせていない。
米国人などが絶対に無罪を主張するのは、負けてはいけないという「自分ファースト」が強固だからだ。
殺人を犯しても無罪になるような裁判の仕様を日本に持ち込んではいけない。
日本人のなかには罪を犯せば、罪を認め、自ら有罪を主張する心がある。
何がいけないのか。
その方が欧米人が好む合理的でもある。
犯した罪を最初から真摯に認め贖罪する。
罪を犯したのに無罪を主張し、見苦しく戦うことになんの正義があるのだ。
法治国家である以上、あくまで法の正義は貫かれねばならない。
多くの国民は理解し、裁判で理不尽な結果が出ても甘んじて受けている。
法の正義にもとづいた裁判で、真の正義をみせてほしい。
それは、検察、裁判官などに贈るべき言葉だ。
それと、法を勝手に変更解釈したり無視する、または、公文書を改ざんしたり破棄したりする政権に。