「民主主義国家でアカデミアの人事に今回のような国家の露骨な介入を許している国はない」
日本学術会議の任命拒否問題で、日本学術会議前会長の山極寿一(京大前総長)が、
京都新聞「天眼」欄に寄稿した。
日本学術会議が推薦した6人の会員候補を任命しなかったことについて、
学問の自由に対する国家権力の介入だとする意見が相次いでいる。
一方、そもそも日本学術会議は3年前に声明を出して「戦争につながる研究」の自粛を求め、
個人の自由な研究を妨げたという反論がある。
私はこの9月末まで日本学術会議の会長を務めていたので、この議論について一言記しておきたい。
そもそも「学問の自由」とはいったい何からの自由であるのか。それは国家権力からの自由である。
私はこの6年間、京都大学の学長として世界各国の学長が出席する国際会議で大学のあり方を論じてきた。
学長たちが口をそろえて主張したのはアカデミック・フリーダムとユニバーシティ・オートノミー、
すなわち学問の自由と大学の自治であった。
いかに国家の圧力から研究する自由、発表する自由、教育する自由を確保するか、
そしてそれを実現するためには大学の自治が不可欠ということである。
ヨーロッパの大学は多くが国立の大学だが、古くから学問の自由と大学の自治を国家権力から守ってきた歴史がある。
それは研究や教育の内容と方法、そして人事に関する自治であり、
日本国憲法でも第23条でその自治を含めた学問の自由を保証している。
ただ、この学問の自由は何を研究してもいいということではない。
研究者とは長年の研鑽(さん)を経て突出した知識と技術を持つ職業人であり、
その能力は同分野の学者たちによって不断に評価されねばならないし、
社会の福祉と発展に寄与する上で明確な倫理意識を持たねばならない。
3年前に、私が日本学術会議の会長になった時、前会長から引き継いだのはこの倫理に関わる2つの課題であった。
一つは人間の生物学的な資質に係る「生命科学の倫理」、
もう一つは社会に係る「軍事的安全保障の倫理」である。
前者は2年前に中国で遺伝子編集によるデザイナー・ベビーの誕生を契機に、
世界と歩調を合わせてわが国でも急速に倫理規定が制定された。
後者はわが国独自の歴史的背景があり、1950年と67年に日本学術会議は、
科学者が戦争に加担してしまった反省から、「軍事目的のための研究は行わない」という声明を出している。
戦後75年にわたって平和を維持してきた日本独自の科学者倫理であり、
私が会長になる直前に日本学術会議はこの声明を継承する旨の意思を表明した。
政府はこれが気に入らなかったようで、会長になってから私は度々「政府に協力的でない」と不満を表明されてきた。
今回の任命拒否がこれに起因するとは思いたくないし、
政府がアカデミアを政府の思い通りに動かそうとしているなら言語道断である。
民主主義国家でアカデミアの人事に今回のような国家の露骨な介入を許している国はない。
国家の政策への反論も含めて多様な意見を認めるのが民主主義国家の在り方であるし、
将来への柔軟な選択肢を持つことにつながる。
今回の暴挙を許したら、次は国立大学の人事に手が伸びる。政府に猛省を促したいと思う。
‘@しかし、99%の憲法学者や法律家が違憲と訴えても強行する政権。
そして、それを許す国、日本。
日本国の思想は、政権の思惑通り明治時代に逆戻りし、中国やロシアに近づいていく。