クリミア南部にある主要都市の一つヘルソン市。
ヘルソンは造船業で知られる人口約30万の都市で、2014年にロシアが併合したクリミア半島のすぐ北にある。
3月2日、クリミアに駐屯するロシア軍の戦車や装甲車によって制圧された。
その陥落前後の模様が、市長の言葉や市民が投稿した動画で明らかになってきた。
ロシアの侵攻が始まった2月24日。イーゴリ・コリハエフ市長はFacebookで次のように語った。
「私はどこにも逃げていない。私は執務室にいる。通常どおり勤務している」
これ以降、市長は頻繁にFacebookを使って市民に呼びかけた。
25日未明、市への進入路となるアントノフ橋(長さ1.3キロ)がロシア軍に襲撃されると、
「橋はまだ(ウクライナの)支配下にある。もし、水道、ガス、電気が止まったら、市役所へ連絡してほしい。
戦おう。持ちこたえよう」と投稿。
その日午後には夜間外出禁止令を出し、「意図的な抵抗には、銃撃する可能性がある」と警告。
その一方「きのう、避難壕で、男の子2人が産まれた。医師はよくやった。みな、生きよう」
などと市民を励ました。
だが、その18時間後、緊張の文言が投稿される。
「ヘルソン、全員、避難壕へ。14:00に砲撃!」
翌27日、「耐え難いのは子供の被害だ。2歳に満たない子供がけがした。
救急車が銃撃され、犠牲者が出た。警戒をしつつ、互いを思いやろう」と鼓舞した。
陥落前日の3月1日。
「ヘルソン市の出入り口に、ロシア軍が拠点を築いた。多方から攻撃を受けている。
わたしたちは軍人ではない。ロシア軍よ、町から出ていき、市民への砲撃をやめてくれ」と悲痛に訴えた。
これに対し、市民とみられるユーザーたちが「戦車が町中を走っている」
「わが軍はどこ。周りはすべてロシア人」と投稿。
市長は、
「こんばんは。私は執務室にいます。戦闘が行われていますが、私たちは、火事を消し、
市民の福祉を守り、給湯システム、暖房を提供します。私たちは必ず勝ちます」と投稿。
陥落当日の3月2日。
「すべてのマスコミに呼びかける。
けが人と死人を市から搬出するための人道回廊を設置するよう助けてほしい。
医療品、食料品を運び込んでほしい。でないと、市は死んでしまう」
そんな投稿もむなしく、市はロシア軍が制圧。
ロシア国防省広報官は、
「ロシア軍がヘルソンを掌握した。現在、30万人の住民に食料問題はない。
軍司令部とヘルソン州、ヘルソン市との間で、市の社会インフラの機能の保持と法執行の維持について、
協議が続いている」と述べた。
陥落の結果は厳しかった。ヘルソン市長はロシア軍との協議の結果を市民に伝えた。
「交渉といえるものではないが、軍人が市役所に来たのは事実だ。
私は、人を撃たないよう頼んだだけだ。結果は次の通りだ。
夜間外出禁止、通行できる車両は医療品、食料品などを積んだもののみ、
パン工場、商店、薬局が開けるよう公共交通を再開、歩行は1人、ないし2人まで。
軍人を挑発しないこと、車の通行はできる限り遅い速度で。何を積んでいるか見せられるようにすること」
3月4日。市長は、
「『善良な解放者』が『助け』をくれるようだ。
最初、危機をつくりだし、あとで『善良な人々』に市民がテレビカメラの前でお礼を言うようにしむけているのだ。
みなさん、よく考え、人間性を保ち、助け合ってください。ヘルソンはウクライナだ!」と訴えた。
市長の言葉を体現するかのように、5日には市中心部でロシアの占領に反対する市民集会が始まった。
ウクライナのウニアン通信によると、多くの市民はウクライナの国旗を振り、
「恥を知れ!」と反ロシアのスローガンを叫ぶ。ロシア軍は警告射撃したが、市民はひるまなかった。
それにさきだち、ロシア軍は約30両の車両で、「支援物資」を配ろうとしたが、市民は受け取らなかった。
ヘルソンでロシア軍に抗議するウクライナ人ら。ロシア軍が配った『支援物資』を足で踏みつけている。
ロシア軍が、陥落させたはずのヘルソン市で、市民から猛反発を買っている。
ウクライナはかつて、政権が親ロシア的な路線を取ったこともある。文化的なつながりも深い。
だからといって、侵略してきたロシア軍を、解放者のように迎え入れることはありえない。
ウクライナも独立から30年たち、「ウクライナ国民」としての国民意識が育ち、
皮肉なことに、ロシアの侵略でそれがさらに強まった。
ウクライナのことはウクライナ国民が決める。当然のことだ。
‘@誇り高き市民も命がけで国を守っている。
自分ではなくウクライナという国を、命を投げ出して守っている。
涙が止まらない。
そんな人たちに、だれが国を捨てろと言えるのか。
君は、戦車の前に身を投げ出せるのか。
あっ、そうだ、君は、プーチンの尻を舐めて、トットと白旗を上げるんだった。