政治・経済、疑問に思うこと!

より良い日本へ願いを込めて。

​葛根廟事件。

1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告。

9日未明に満洲国、朝鮮半島樺太などに侵攻を開始。

8月10日と11日の両日、満州国興安総省省都である興安が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊された。

興安には興安総省の民間人4千人の内3千人がいたとみられる。

興安では、かねてからソ連の侵攻に備え「興蒙対策」をたて、その中の避難計画では西半分の住民を興安総省参事官の高綱が、

東半分の住民を参事官浅野良三が率いて避難する計画であった。



高綱隊は10日から出発を始め11日午前中には最後の貨物列車に乗って全ての出発を終え、無事脱出に成功した。

関東軍は後退を総省公署幹部にさえ伝えず、軍関係者がいて事態をいち早く知った西側地区住民に対し、

東側地区の住民はハンデがあったという。

浅野隊は集合自体に手間取り、11日午後4時、浅野の指揮の下、ようやく行動隊が組織された。

その夜、浅野隊は興安の東4kmのウラハタという町に入り、炊き出しも行われ、学校や防空壕で一夜を過ごした。

ここで、「興安七生隊」と称する7つの中隊を組み、小銃や手榴弾を持ったわずかな男性らが各中隊の護衛にあたることになった。

浅野隊の本来の目的地は北東へ約100キロメートル離れた場所であった。

しかし、すでに列車はなくなり、また、以前より馬車30台を準備していたが、それらは前日に関東軍に徴用された。

8月14日午前11時40分頃、行動隊がラマ教寺院のある葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇した。

このとき隊列は2キロにわたって伸び、後に確認された生存者は百数十名にすぎないが、

「浅野参事官は白旗を掲げ、我々は非戦闘員だ、撃たないでくれと叫びながら戦車の方に向かったが、機関銃で射殺された」という話も語られる。

ソ連軍は丘の上から浅野隊に対し攻撃、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。



戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞ったという。

ソ連軍戦車は攻撃を続け、丘に引き返し、また避難民めがけて突入し、攻撃を何度も繰り返した。

戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。

2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした多数が殺害され、その後の自決もあって、このとき1,000人以上が亡くなっただろうとされる。

生存していたことが後に確実に確められた者は百数十名にすぎないとされている。

護衛・反撃に回るはずの肝心の関東軍部隊は既に南に退避済みだった。

8月15日の終戦後も、避難民に対する襲撃は続いた。



事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12歳の少女の証言によると、

少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながらも逃げた。

女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソ連兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。

暴行が終わるとソ連軍兵士たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。

少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の回りが早く脱出できなかったようであると証言している。

助かった少女はその後、残留孤児として生きることを余儀なくされた。

一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人のなかには生存者に食事を提供する者もおり、中国人のなかには子供を手厚く育てる者もいた。

浅野隊の生き残った親を殺された子供たちは、さまざまな経緯から中国残留孤児となっていた。

 

(合掌)