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​立憲民主党の代表選告示。

立憲民主党の代表選挙は19日告示された。

逢坂誠二小川淳也泉健太西村智奈美の4人が立候補。30日投開票。



今回の代表選挙は、党所属の国会議員のほか、全国の地方議員や党員・サポーターも投票する仕組みで、

今月30日の臨時党大会で投開票が行われて、新たな代表が選出される。



逢坂誠二(62)元総理大臣補佐官、立憲民主党北海道連代表・5期。




北海道虻田郡狩太町(現:ニセコ町)に生まれる

小学校に上がると父親に命じられ、低学年からヤクルトや牛乳の配達、集金などをし家業を手伝った。

1979年に北海道大学薬学部に入学。大学卒業後、4月ニセコ町役場へ入庁。

薬剤師免許を取得。

1994年10月16日に行われたニセコ町長選挙で現職の渡辺冨雄を僅差で破り初当選。

無投票で3選後の2002年12月に連合北海道や市民グループ8団体から、

2003年1月には民主党から出馬を請われ、動向が注目されるところとなった。

同年2月2日、知事選不出馬を正式に表明]。一連の騒動の責任をとるとして、議長に退職申出書を提出。

ニセコ町長職への辞意を表明。これに対し、町の人口約4,600人から辞意の撤回を求める、

3,000名分の署名が届けられた。

2月26日に逢坂は議長に辞職撤回の意思を伝えた。

2004年に内閣府が行った調査で、ニセコ町は参考にしたい自治体の1位となっている。

2005年8月8日に衆議院が解散すると、民主党から立候補を要請される。

8月25日、逢坂は比例北海道ブロック単独1位候補として立候補することを正式に表明。

同年9月の第44回衆議院議員総選挙で初当選。

自らの政治信条について、「保守とか、リベラルとか、革新とか、右翼とか、左翼とか、

私にはあまり意味がない。私の仕事は、国民を守ること。そのために国を守ることも、

食料やエネルギーを確保することも必要だ。

私の中には、保守、リベラル、革新などあらゆるものが同居している。

国民の命を守り、国民とともに成長するために」と述べている。


小川淳也(50)国会対策副委員長・6期。



香川県高松市松並町に生まれる。両親は美容室を営んでいた[4]。

1994年3月、東京大学法学部卒業。同年4月、自治省(現:総務省)に入省。

最初の赴任地は沖縄県庁だった。

高校時代の同級生と結婚。翌1995年9月、沖縄で米兵少女暴行事件が発生。

10月21日に宜野湾市で開かれた、事件に抗議する県民総決起大会に小川氏は妻と参加。

2001年4月、春日井市役所に出向し、企画調整部長に着任。

当時仕えた鵜飼一郎市長に心酔。

「政治家として最も強く影響を受けた人の一人」とのちに小川氏は綴っている。

2003年7月3日、総務省を退職。

同年11月9日の第43回衆議院議員総選挙に香川1区から民主党公認で立候補するも、落選。

2005年の第44回衆議院議員総選挙に再び香川1区から立候補し、再度、自民平井氏に敗れたが、

重複立候補していた比例四国ブロックで復活し、初当選した。

野党共闘を推進する。

民進党香川県連代表であった2016年、

第24回参議院議員通常選挙香川県選挙区の候補者を共産党の候補者に一本化するため、

私有財産制の保障や自衛隊の存続、天皇制の維持や議会制民主主義の擁護、

ならびにその他の人権の保障などの立場を明確にするための確認書を、

日本共産党香川県委員会との間で結ぶなど、民進党内の「共産党アレルギー」解消のために尽力した。

日本共産党民共共闘)との共闘については、立憲民主党幹事長特別補佐となった後の2018年12月にも、

共産党主催の演説会に出席し、「今度こそ本気の野党共闘をやろう」と訴えている。

また、同じく2018年12月、野党共闘に関して「徹底した野党共闘論者であるという自負がある」

「私は立憲が野党共闘を指導する立場になるべきだと考えている」と主張。

「国民党から共産党までみんなで合併、巨大な中道リベラル政党をこの国に誕生させることができれば、

自民党と本気で対抗できる野党を創ることが出来る」と他の野党との合併論者であることを自認し、

共産党やれいわ新選組との合併による新党移行を主張している。


泉健太(47)政務調査会長・7期。



北海道札幌市北区生まれ。立命館大学法学部卒業。

大学在学中は関西学生弁論討論交流会会長、全日本学生弁論討論交流会会長を務めた。

立命館大卒業後は民主党参議院議員福山哲郎の秘書を務める。

2000年(平成12年)、第42回衆議院議員総選挙に京都3区から民主党公認で出馬したが、落選。

2003年(平成15年)、第43回衆議院議員総選挙に再び京都3区から出馬し、初当選。

本人によれば、年少期のアトピーの影響で、唇に色が出ない。

日本経済新聞の交遊妙では、大学時代に同居していたLINE株式会社主席政策担当の村井宗明を、

「異体同心」の親友として紹介した。

 
「この度の選挙で、惜敗して負けていく同志が数多くいました。
 
悔しかった。もう少しだった。あと一歩、ほんの少しで議席を獲得できていれば、
 
自公政権の横暴、傲慢にストップがかけられたんです。
 
国民の審判は、立憲民主党にあと少しの努力、研鑽を求めている。
 
それに応えなければならないと思っています。
 
社会全体が分断に向かっている今、対立を煽るように選択を迫ることは害悪です。
 
対立、分断を招く社会システムを変えなければいけない。
 
ならば、まずは櫂よりはじめよ。
 
立憲民主党は、旧国民とか旧民主とかに、いつまでもこだわっていてはいけない。
 
代表選挙によって意見を交わし、党のあり方、この国の進むべき道筋を考え抜く。
 
そのための代表選でもあります。
 
そして、党が一丸となって、国民から政権をお任せいただける立憲民主党にならなければ。
 
私は、その覚悟で立候補しました。
 
強い人だけでなく、弱い人も、女性も男性も、誰にとっても不安のない生きやすい国、
 
生きがいのある社会を作らなければ。それが誇れる日本の姿ではないでしょうか。
 
経済苦やパワハラ自死する人がいちゃ、いけないんです。
 
きれい事ばかりで実体政治から乖離していると叱る人がいるかもしれない。
 
野党は批判ばかり、と批判する人もいます。でも私たちは、私たちを批判する人、
 

私たちを支持しない人からも『任せても良いかな』と思ってもらえる政党作りをしていきたい」


西村 智奈美(54)6期・元厚生労働副大臣



立憲民主党新潟県連代表、立憲民主党ジェンダー平等推進本部長。

党員停止された元立憲民主党衆議院議員本多平直は夫で、戸籍上の姓は本多。

1990年、新潟大学大学院法学研究科修士課程に進学し、同年9月から英国ブリストル大学法学部に留学。

1993年3月、新潟大学大学院を修了し、修士号を取得。

非常勤講師を務める傍ら、自ら大学卒業時に創設したNVC新潟国際ボランティアセンター事務局長
(~1998年9月)を務めていた。

1998年11月、民主党に入党。

1999年、新潟県議会議員選挙に立候補で初当選し、一期4年を務める。

2003年、第43回衆議院議員総選挙に新潟1区から民主党公認で出馬し、初当選。

カジノの解禁に反対。

日本の核武装について「将来にわたって検討すべきでない」としており、

非核三原則の「持ち込ませず」の部分についても「議論する必要はない」としている。

女性宮家の創設に賛成。

海外渡航歴36か国。

野党第一党としての立憲民主党を私自身が先頭に立ってしっかりと立て直し、

 
もう一度有権者の皆さんから信頼していただける政党になるためにできることを全力で頑張ろうと。
 
派手なパフォーマンスや人気取りの政策が横行しがちな政界ではありますが、
 
私は私の持ち味を生かして一つ一つの課題や困難に地道に解決に導いていく、
 


そういうリーダーになっていきます」