1950年9月22日、東京都千代田区で日本大学の職員が給料191万円を輸送途中、同じく日大に勤めていた運転手の少年(当時19歳)に襲撃された。
少年は職員をナイフで切りつけて金を奪い、日大教授の娘である恋人(当時18歳)と逃走。
9月24日に潜伏先の品川区で逮捕される。逮捕の際少年は恋人に向かい「オー・ミステーク」と叫んだ。
犯人は奪った金で舶来の高級バッグや腕時計を買い漁っていた。
大卒初任給4千円の時代にわずか3日間で30万円もの買い物をしていた。
少年はアメリカかぶれで、捕まった後もふてぶてしい態度で取り調べ中も英語交じりで話すなどしていたという。
少年は懲役4 - 7年の不定期刑、恋人は強盗傷害幇助罪で懲役2年・執行猶予3年の判決を受けた。
当時は若者の反社会的行動が注目されており、この事件はそうした傾向を象徴する事件として位置づけられた。
また、「オー・ミステーク」は流行語となった。
いくつかの新聞は少年および恋人の実名・顔写真を掲載したが、
未成年の実名報道を禁止した少年法第61条に反するとして最高裁判所事務総長名で日本新聞協会に警告が出された。