小室しの論文、私の単純な評価を在米ジャーナリストの岩田太郎氏が詳細に分析。
10月31日、小室し「申し訳ありません」不合格。
日本でテレビに出ている多くのタレント弁護士は「小室しの合格は間違いない」と断言していたが、
奇跡は起こらなかった。
小室しの米ニューヨーク州の弁護士会が募集した論文コンペでの優勝は何だったのか。
ニューヨーク州弁護士資格も持つタレント弁護士の清原博氏は、
「これはもうスーパーマンですよ」と大絶賛していた。
先日も記したが、小室しの英語の能力は高いが、論文はそれほどには見えなかった。
そもそも、日本の司法試験よりニューヨーク州の司法試験の方が簡単だからチャレンジしたのではないか。
しかし、いくら簡単とは言え、素地の無い難関試験をそう簡単に合格するとは思えない。
小室しの能力に懐疑的な訳の一つは、簡単に解決できるはずのもめ事を解決するどころかさらに難しくしてしまった。
以前から指摘しているが、弁護士を目指す者に解決能力が無くてどうするのか。
眞子さんが憲法に違反して、圭しには「私の意向で全て動いてもらった」と語ったが、それもおかしな話だ。
弁護士を目指す人間が、そんなことをさせるべきでも、公に語らせるべきでもない。
そんなことも理解できないのは、やはり能力に欠けるとしか思えないのだ。‘@
そして、清原弁護士や山口真由弁護士らも、箔を付けるためにニューヨーク州の弁護士資格を取得したので、
ニューヨーク州弁護士会などの内情や実情はあまり知らないことが露呈した。
結果論として、学生論文や母親の金銭問題の長々とした文書など書いている暇はないということだ。
小室しは、目立ちたいという思いが強いように見えて仕方ない。
岩田太郎氏。
眞子さん(30)と結婚した小室圭し(30)がニューヨーク州弁護士会の論文コンテストで優勝し、
賞金2000ドル(約23万円)を獲得したことを、日本のメディアが一斉に報じている。
その横並びの報道スタイルからして、結婚に関するプロセスや発表を、
一貫して「プロデュース」していると伝えられる元内親王の意を体した、
宮内庁が流したニュースであると思われる。
ニューヨーク州の弁護士資格を持つ清原博氏はワイドショーで、
「ロースクールの授業の予習復習も大変なのに、なおかつ司法試験の勉強もある。
さらに論文も書く…。これはスーパースターですよ。スーパーマンですよ」と絶賛。
また、カリフォルニア州の弁護士資格を持つケント・ギルバート氏は、
「英文読みましたけど、ばっちりです。大丈夫です」と太鼓判を押した。
そして多くの国民はその報道を信じた。
まず、授賞者について見てみよう。日本では「ニューヨーク州弁護士会」と報じられている。
それ自体は間違いではないのだが、実際にはニューヨーク州弁護士会の下部組織のひとつである、
「ビジネス法部門」が審査と選考を行う主体だ。さらに、賞は学生向けのものにすぎない。
ここで日本のマスコミは、上部組織の「ニューヨーク州弁護士会」が授賞者であるような印象を与え、
学生論文コンテストのひとつに過ぎないものを、さも「すごい」一般コンテストと思わせることにより、
いつものように「盛って」いる。
たとえば、京都市教育委員会の子ども若者はぐくみ局から表彰を受けた人が、
「私は京都市から賞を受けた」と主張するようなものだ。
間違いではないが、授賞組織や賞の重要度について誤解を与える。
受賞は学生個人としては立派なことには違いないが、法学上の新説を打ち出したとか、
憲政上の定説をひっくり返したなどの学問的な価値があるとは言えず、
テレビや新聞で大々的に全国ニュースとして扱うレベルの話題ではない。
ちなみに現在首都ワシントンで働く筆者の娘は、学部生として多くの賞や奨学金を得たが、
それらは経歴書においては「トッピング」に過ぎず、採用時に最も重視されたのは、
「何を、どんな目的意識で完遂してきたか」「社会にどれほどのインパクトがあり、
将来的可能性はあるか」であった。
競争相手にはできない結果を常に出さねばならない重圧であり、学生向け論文コンテストひとつの受賞で、
「実力がある」「おめでたい」「バッチリ」などと浮かれていられるような甘い世界ではないのである。
今回の受賞作である「ウェブサイトへの接続におけるコンプライアンス問題と起業家への影響」は、
上記ジャーナルの2021年春号に掲載されているとのことだが、
ニューヨーク州弁護士会のビジネス法部門の当該サイトにはまだアップロードされていないようで、
アカデミックな出版物の検索エンジンであるWorldCatでもヒットしなかった。
だが小室氏は、同誌の2019年夏号に掲載された論文で、昨年の同じ学生論文コンテストの2位に入賞している。
ウェブ上で閲覧が可能だ。今回の論文はアクセスできないため、この前回の論文のアカデミックな価値を考えてみたい。
結論から述べると、小室氏の論文が条件を満たすのは恐らく読者アピール、
時宜を得た話題、わかりやすさと簡潔さのみで、
最も重要な要素である独創性や質が伴っていないように見える。
そもそも、文章中に「~のように主張する人がいる」「データによれば」と述べるために、
「Some people also argue that」「Some data imply」などという表現を使っているが、
米国では学部生の期末ペーパーであっても、こんな稚拙な表現を使えば減点対象になる。
代わりに、「Constitutional scholars put forth arguments on」とか、「Industry data indicate」のように、
主語をより具体的に伝えなければならないからだ。
とは言え、実務的かつ実用的な情報に関しては、有用なデータを簡潔に上手くまとめている。
全般的には、小室氏の論文は学問的には残念なレベルだと筆者は感じる。
一般論の域を出ておらず、高い独創性があるとは言えない。
以上のように筆者は、小室氏の前回の論文の学問的な価値はさほど高くないと考える。
しかし、別の視点から彼の論文を読み解くと、面白いことが見えてくる。
それは、小室氏の「金集め」「詐欺」や「信用」への強い関心だ。
たとえば小室氏は、ウェブ上の資金調達であるクラウドファンディングのプロセスで、
詐欺行為やその懸念が高まることで、出資者からの資金調達に制約がかけられてしまうことに注目する。
プロセスの公正さや出資者の保護よりは、お金を調達する側からの都合と視点が前面に押し出されているように見えるのだ。
つまり「信用」を、ステークホルダーの互恵や社会制度の公正さといった視点から捉えるのではなく、
単なるお金集めのツールあるいはひとつの機能的要素として見ている。
根底にあるのは、お金を出す側を守ることでも公正さを確保することではなく、
いかに出資者の信頼を活用して、最低限の規制でクラウドファンディングを発展させられるか、
というビジネス優先の意識のようだ。
小室氏の論文は、制度上のチャレンジを逆手にとってチャンスとして使うべきだと言っており、
そのお金を集める側としての「前向きな発想」が、彼の人物像を読み解く上での重要なカギとなりそうだ。
前回の論文は、小室氏の「金集め」「詐欺」や「信用」への強い関心をうかがわせるものであったし、
今回の受賞作も「コンプライアンス規制の起業家への影響」など、一貫して、
相互が信用できる社会のため設計された規制や説明責任から生じる制約に対する、
疑問や問題意識を示している。
そして、規制や説明責任に対する回避的な姿勢こそが、
眞子元内親王との結婚にも、深い影を落としているように思えてならない。