政権は何回も繰り返しているが、説明すれば済むことなのに、
いつも政権与党は説明責任を果たさない。
説明できないことを政治家が行ってはダメだ。
「内閣総理大臣が任命したり任命拒否したりできるのは当然。
総理は民主的に選ばれたのだから、総理の判断に不満があるなら、選挙で示せ」
などとしたコメンテーターなどの意見が多数ある。
民主主義の国で国民が総理を選んでいるといっても、
国民は直接総理大臣を選んでいる分けでは無い。
そして、現政権に「NO!」を突き付けている国民も多数いる。
YESが全てではない。時として多数派が国を間違った方向へ導くことは間々ある。
それを「選挙で示せ」と切って捨てるのはあまりにも胆略的だ。
また、独裁者や憲法を軽んじる人を選んでいるわけでもない。
あくまで憲法や法律で定めた権限を守り、行使する人を選んでいる。
内閣総理大臣といえども、何でもできる権限があるというわけではなく、
憲法や法律で定められた範囲の権限を行使しなくてはならない。
そして説明責任を果たすべきだ。
多くの国民にはピンとこないのだろうが、重大問題だ。
この問題が提起されてから、日本学術会議への多額の費用を問題視する声が異常に増えている。
しかし、費用などと今回の総理が拒否したことは別問題だ。
それはそれとして別に議論すればよい。
また、日本学術会議は偏り過ぎているとの指摘もある。
でも、どこが偏り過ぎているのか説明できないのに、何度も偏り過ぎているとすり込もうとする橋下氏。
法律家とも思えない窮鼠論法だ。
国が予算を出しているのだから独立というのはおかしいと述べる人もいるが、
国立の学校なども国が予算を出しているが独立している、はずだ。
むしろ、いう事を聞かない大学などは政府から予算を削られる。
国が予算を出していろんな意見を聞くのは良いことで、
それを責めるのは、あまりにも身勝手で了見が狭い。
以前から指摘しているが、政権が検察庁、内閣法制局、学術会議などの人事に介入。
まさに日本が中国や北朝鮮と同じになっている。
しかし、不都合な真実を排除すると必ず大きなしっぺ返しを食らう。
東北大震災の原発がそうであったように。
有識者の意見を聞いても無視する政権の要として働いてきた菅総理。
今回も排除しなくても何の問題もない筈だが、「イヤ」と思えば抑えきれない性格のようだ。
だから、「反対するものは異動だ」と、堂々と述べたのだろう。
見せしめの意味もあるのだろうが、やり過ぎるとそのツケは必ず返ってくる。
83万人を敵に回す可能性がある。
国民にツケを回すことだけは勘弁してほしいものだが、いつも泣くのは善良な国民。
「軍事目的のための科学研究を行わない声明」
日本学術会議は、1949年1月、その創立にあたって、
これまで日本の科学者がとりきたった態度について強く反省するとともに、
科学文化国家、世界平和の礎たらしめようとする固い決意を内外に表明した。
われわれは、文化国家の建設者として、はたまた世界平和の使として、
再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、さきの声明を実現し、
科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、
今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する。
防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足)では、
同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、
政府による研究への介入が著しく、問題が多い。
軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、
その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から,
技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである。
科学者を代表する機関としての日本学術会議は、
そうした議論に資する視点と知見を提供すべく、
今後も率先して検討を進めて行く。としている。
ちなみに、日本学術会議には年間約10億円、
その組織である日本学士院に年間約6億円が支出されている。
日本学士院は文科省の管轄で、一線を退いた大御所たちの相互扶助的な組織で、
終身制で年間250万円(課税)の年金が支給されている。
むしろ、こちらの方に先に手を付けるべきだろうが、そうもいかないようだ。
根は深い。