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『死刑囚表現展』2020 東京。

都内で行われた展示会、「死刑囚表現展」。

2008年に東京・秋葉原で17人を殺傷した加藤智大死刑囚が描いた絵画や、

2016年に神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」で入所者19人を殺害した、

植松聖死刑囚の作品なども展示された。

15年前に始まった「死刑囚表現展」。展示されているのはすべて死刑囚の作品だ。

今回は安楽死の法制化や大麻合法化、美容整形の推進などの持論を書き綴っている。

この展示会にインターネットでは、「死刑囚に表現の自由などいらない」

「被害者や遺族に苦痛を与えるだけ」といった批判的な声があがっている。

 

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死刑囚が表現した作品を展示する意味とは。

23日の『ABEMA Prime』は主催者の1人太田昌国氏を招き議論した。

「死刑囚表現展」を開催する目的について、太田氏は次のように話す。

「結果的に死刑囚が生まれる事件は2つあって、1つは許すことのできない冤罪事件。

過去日本にもたくさんあったし、現在も冤罪で苦しんでいる方がいる。

それが実際に執行されたらどうなるのかという大きな問題が1つ。

もう1つは、死刑囚になるということは、その前に非常にむごい犯罪がされているわけだ。

その犯罪をその時代の社会的な文脈の中でどう捉えるかという問題があると思う。

もちろん、むごい犯罪だから報道が過熱して、そこが焦点化されるのはある程度やむを得ないが、

犯罪というのは個人的な問題だけに根っこを持つわけではなく、

その時代の社会、政治の在り方にも及ばせて考えていかなければ捉えきれないものがある。

犯罪と、実際にそれをなしてしまった結果、死刑囚になる人たち。

そういうことを社会的な文脈の中に還元したい」

それらを捉えるため有効だろうと考えたのが、死刑囚自身が何らかの形で表現すること。

「彼らは非常に孤立した状態で、狭い独房で生活しているわけだから、

社会的なコミュニケーションの手段がまったくない。

そういう時に、自分が送ってきた人生あるいは起こした犯罪、

そこから離れて自分が持っている空想的な世界に関わって、どういう表現が可能かということを、

彼らも表現の権利として保障された方がいい。そういう考え方から始めた」

 

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‘@表現の自由や権利は認められていれば、死刑囚でもあるのだろうが、それを公開するのは別の話だ。

ひろゆき氏が、私と似たようなことを発言した。

ひろゆき西村博之)氏は「絵画とかであれば直接的なメッセージはないと思うが、

今回植松被告に関しては文章で出してきたので影響力は強いのではないか。

“こういう考えを持つ人がいるのか。僕もそうかもしれない”という人が出てきてしまう可能性があると思う」と懸念を示した。

この点について太田氏は「死刑囚に限らず、例えば文学や映画、演劇など人間がなす表現なら、

社会で起きるあらゆる可能性に言及する表現ジャンルなわけだ。

だから、ある作品にひどく影響されて何かが起こるということは、人間観としてものすごく短絡的な捉え方だと思う。

人間はどんな文学・映画・演劇、あるいは実際に何かを犯してしまった人の発言に触れても、

そのまま共感を覚えて何かをなすということはほとんどない。

もう少し複雑な回路を辿って人間的な形成を行っていくわけだから、

目の前にある表現と結果として起こる犯罪を短絡的に結びつける考え方は違うのではないかと思う」

との考えを述べた。

太田氏の複雑な回路との指摘はイコール理解しにくいということではないだろうか。

短絡的というが、犯罪は得てして短絡的に実行される。

そして、人間は影響を受けやすく、事実、自殺の連鎖や、模倣犯も存在するし、

ヒトラーや過激な発言をする人に影響を受けて犯罪行為に及ぶ人もいる。

たとえ一人でも残酷な犯罪は重大な被害を及ばす。

やまゆり園事件で重傷を負った尾野一矢さんの父・尾野剛志さんは、

「死刑確定後も罪に向き合っていないのは明白。

展示自体も彼の主張に感化される人々が現れる恐れがあり、有害でしかない。

感化され実行する人が1人でも大変な事件になる」と苦言を呈している。

 被害者感情について太田氏は、「その問題は確かにあって、アンケートを集めると、

『死刑囚は人を殺した上で生きている。そして表現している。何様のつもりだ』

ということを書いている方はいる。

また、直接的な遺族でそういう感情を持つ方もおられるということは、

まったく否定できないと思うし、反駁するつもりはない」と話す。

 

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太田氏は、被害者感情があることは認め、反論するつもりはないとしているが、

答えにはなっていない。

 アンケートの中身はプリントし、死刑囚に知らせるようにしているという。

「アンケートを読んだ上で次の年に送ってくる作品というのは、

“その問いに自分がどう答えるか”を葛藤しながら描いているものが目立つようになる。

僕らは死刑囚とのコミュニケーションを、選考委員会を開いて議事録もすべて入れて、

どんなに厳しい批判的な作品に対する批判も含めて入れた上で、

最初に言った目的に適うような形で運営をしている。

今やっている展示だけに焦点化されて捉えられても、私たちとしては困る。

この犯罪がなぜ起こったのか、こういう犯罪を今後抑止する力はどこにあるのか、

罪を犯した人が更生する道はどこにあるのか。そういうことを全体的に考えていく道筋になっていけばいいと思っている」と述べた。

今回の作品を見る限り、葛藤しながら書いている作品はあまりないように感じた。

自身の死刑、死というものとの葛藤、贖罪を表現する人はみられたが、

被害者や発表することの是非についての葛藤表現に、私は気付かなかった。

犯罪被害者支援弁護士フォーラム事務局長の高橋正人弁護士は、

「“二重、三重の被害”を与えている。死刑囚の表現を止めることはできない。

被害者から“表現する”ことを奪ったのは死刑囚。殺された人は、絵も描けない、文章も書けない」と、

展示がさらに遺族を傷つけると指摘。

太田氏は「起こされた犯罪とは関係ない第三者的な立場で冷静に考えるべき我々が、

むごい犯罪だから遺族の方に同情するのは当たり前だが、それに一体化するのは、

犯罪から何を学ぶのか、犯罪をなくすためにどうするのかという冷静な問題提起を失わせるものだと思っている。

被害者といっても一様ではなく、数は少ないかもしれないが、とても長い苦悩の時間を過ごした末、

罪を許すというふうに考える方もいらっしゃるわけだ。メディアが被害者という存在を一つの形の中に、

これしかないという形で表現するのはどうかと実は思っている」との持論を述べた。

時がたてば感情は薄れる。

誘拐事件や監禁事件などの被害者が、犯人と長い時間を共にすると、

.共感、さらには信頼や結束の感情まで抱くようになる現象もある。

いわゆる、ストックホルム症候群と言われるものだが、本質とは違う。

 

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「とても長い苦悩の時間を過ごした末、罪を許す」というのは、

被害を受けた側が、長い修行の末、加害者を許すという、

加害者が被害者を許すために、長い時間をかけて修行しなければいけない、

人知を超えた宗教だ。

そこまで、被害者に求めなくてはいけないのか。

時間の流れの中でそうなるのは、時間という空の存在と、許す気持ちになる人はごくわずかという現実。

身も蓋もない発言だが、私は基本そんなことをしても犯罪は無くならないと思っている。

そして犯罪心理も解明されない。

もちろん、積み重ねはあるが、犯罪行為は短絡的だ。

金、愛情のもつれ、激高、怨み辛み妬み。

むしろ、犯罪行為よりも人間の心の奥底に持つ、そういった感情を抑制すれば、

犯罪行為は少なくなる。

しかし、それは、自由社会では無理なこと。

そこで大事なのが、太田氏も述べている、その時の政治や社会だ。

政治が真っ当な政治をしていれば、社会秩序は保たれ犯罪は少なくなる。

逆に、政治が悪政であれば、社会秩序は乱れ、犯罪は増加する。

例えば、コロナ渦、政府の対応によっては悪質な犯罪が増加するだろう。

なぜか、若者の犯罪も増加する。

もし自身が被害者遺族になった時、加害者が作品を出していることは受け止められるのか。

太田氏は「僕の立場からは論理的にそう考えなければこういう活動はできない」と答えた。

論理的な考えと、実際の行動は往々にして違うのは、火を見るより明らか。

太田氏がそうだと言っているのではない。


(ABEMA/『ABEMA Prime』参考)