「反対派の批判は的外ればかり」
国葬やアフリカへの4兆円支援、「税金の無駄遣い」というのは的外れ。
税金の無駄遣いかどうか主観的な評価は人それぞれであるが、法令に基づく適切な支出でない場合、
それが税金の無駄遣いとされるのは、ほとんどの人が納得できるだろう。
安倍元首相の国葬やアフリカへの4兆円支援は、それぞれ法的根拠がある。
国葬に反対する人は、法的根拠がないとして裁判所に対し差し止め請求しているが、
裁判所がそのような理由で差し止め請求を認めることはないだろう。
国民への弔意の強要という主張は理解できない。
内面の自由があるので、弔う気持ちのない人まで強要しない。
一方、国葬の反対は、弔う気持ちのある人を妨害するだけで、むしろ他人の内面の自由の侵害にもなりかねない。
‘@「形式に束縛されぬ“民葬”の方がふさわしかったのではないか」
閣議決定で全て決めていいものかと問うている。
閣議決定で全て決められるのであれば、それは独裁国家だ。
国葬は国民への弔意の強要ではないが、国葬反対は他人の内面の自由の侵害って、無理筋の矛盾。
内面の自由があるので、弔う気持ちのない人まで強要しないのがから、
内面の自由があるので、弔う気持ちのある人の邪魔はしない。
安倍氏の献花を誰も邪魔するものはいなかったはずだ。
国葬と言うのは税金を使った国の押し付け。
吉田茂氏の国葬の時には開会の辞の後、1分間の黙祷が行われ、全国各地でサイレンが鳴らされ、
国民はその場で黙とうした。
政府は当時、国葬当日の午後について、官公庁は業務に差し障りのない程度に職員を早退させ、
国公立の小、中、高校、大学も午後は休校としたという。
一般家庭にも当日弔旗を掲げ、午後2時前後に1分間の黙祷をするよう要請したという。
また、「競馬や競輪、オートレース、競艇などの公営ギャンブルは当日は開かないと決めた」
テレビも国葬当日は朝から晩まで全チャンネルで追悼番組を放送。
神奈川県大磯の自宅から武道館へと遺骨が運ばれるまでは、民放全局共同で中継。
戦後初の「国葬」を大いに盛り上げた。
だが、国葬は当時、「無感動な官葬」などと国民からは大不評だった。
だから、それ以降、首相の国葬はやらなくなったという話もある。
国葬をやっても国も自民党も得はないし、本人も遺族も望まなくなった。
そういう事実を知ってか知らずか、なぜか岸田総理は安倍氏の国葬をゴリ押ししている。
そして、その影響が国葬前から如実に表れている。
「国葬反対は税金を使わない」、安倍氏の国葬に対する国民の意見。
本来は頭のいいはずの人が、無理筋に短期間で擁護しようとすると、矛盾だらけの論理崩壊を平気で晒す。
哀れなものだ。
「海外の要人がたくさん来るので国葬がいい」的なことを主張する人もいるが、
彼らは「国葬」かそうでないかは関係ない。げんに国葬なのにG7からは誰も参列しない。
それよりも大切なのは、国民が安倍氏に心から弔意の気持ちを持ちお別れしたということが伝わるかどうかだ。
当日、国葬反対のデモがあちらこちらで起きたのでは、本人や遺族にしてみれば、こんな酷なことはない。
いまの、麻生太郎議員に似た吉田氏。
<しゃ脱だった故人を送るためには、無感動な“官葬”を営むより、
自然な形式に束縛されぬ“民葬”の方がふさわしかったのではないか>
当時の読売新聞はこう問いかけた。
政権維持のために堅苦しい国葬などをやるよりも、共同で執り行う「国民葬」で送った方が、
オプチミストの安倍氏には相応しいのではないか。
日本人には亡くなったらノーサイドという気質がある。
ある反面日本人のいいところでもあると思うが、それがこの国葬でかき消されてしまった。
国葬問題が無ければ安倍氏に対する批判も自然に収束するはずが、統一教会問題も出て来た。
この処理も岸田政権の不手際で長引きそうだ。
安倍氏は死してもなお批判の対象であり続けなければならない。
せめて政府は故人を利用するのではなく、故人や遺族の立場にたった、争いのないお別れの場にしてほしかった。
(合掌)