政治・経済、疑問に思うこと!

より良い日本へ願いを込めて。

ドミニカ、日本人移民に土地補償金。

「政府に騙された。移民ではなく棄民だ」


1950年代に農業のためにカリブ海ドミニカ共和国に移住した日本人移民に対し、

ドミニカ共和国政府が、約束されていたものの譲渡されていない土地の補償として1世帯当たり約2千万円の補償金の供与を決定、支払いを開始している。

中南米の日本人移民に対し、受け入れた国の政府が補償金を払うのは異例。



ドミニカ移民へは広大な農耕地の無償分配が目玉だったが、実際は農耕不適地で日本政府が約束した面積も譲渡されず「戦後移民史上、最悪のケース」と呼ばれた。

「カリブの楽園」の宣伝を信じて海を渡り、苦しい生活を強いられたドミニカ移民。

移住開始から67年。厳しい生活を強いられてきた人たちの表情には苦労がにじんでいた。

ドミニカ政府からの補償金を受け取った山口県岩国市出身の向井猛たかしさん(76)は感慨深げに話した。

向井さんがドミニカに移住したのは1958年。当時10歳だった向井さんは祖母、両親、弟妹と計7人で、南部のアグアネグラに移住。

「ひと稼ぎして8年後には帰国できる。農地はドミニカ政府が買い上げる」との日本政府の宣伝を信じた父親は自宅と土地を売却。

向井さんは中学校までの教科書一式を持って海を渡った。



しかし、「カリブの楽園」との触れ込みとは異なり、入植した地は電気も引かれていないジャングルの中だった。水道もなく、水は川までくみに行った。

約束された土地は数か月待っても与えられず、移住地から1キロ・メートルほど離れた場所を開墾し、コーヒーやトウモロコシを植えた。

水がなく生育は雨任せで、思うように育たなかった。生活は困窮し、衣服を売って米を買った。

しばらくして一家は知人を頼り、ハイチとの国境の町・西部ダハボンに移ったが、巨大なサボテンが生えた土地は耕作が十分にできるような土壌ではなく、建設労働者として働いた。

結局、引き渡すと約束された農地のうち配分されたのは1割に満たず、それも所有権ではなく、耕作権だった。

長男の向井さんは働き手として家族に頼りにされ、学校には通えなかった。


(ブラジル)

「実情がわかっていたら来ていなかった。日本にいたら学校に通い、好きな本を好きな時に買えたかもしれない」。そう想像せずにはいられなかった。

解決策を示そうとしない日本政府に対し、1999年、損害賠償を求めて提訴することを決めたが、

高齢の移民らは「祖国を訴えるなんて」と涙を流しながら、委任状に署名した。訴訟に反対する人たちもおり、ドミニカの日系社会は分断された。

2006年6月、東京地裁は日本政府の責任を初めて認めたが、賠償請求は棄却された。

控訴したが、日本政府の謝罪を条件に取り下げた。

判決を受けて当時の小泉首相がおわびの談話を発表し、一時金として1人最大200万円を支給した。

しかし、「日本政府に移民ではなく、棄民として扱われた」という不信感は消えなかった。


ドミニカの外相は21年7月、日本人移住65周年の式典で初めて謝罪し、同10月に補償を定める大統領令が発令された。

「諦めずに交渉し続けてよかった。今となってはドミニカの人たちには感謝の言葉しかない」。嶽釜さんはそう語った。