ロシア“佐渡金山”の世界遺産「反対」
ロシア外務省の報道官は9日(現地時間)の定例会見で、
佐渡金山のユネスコ世界遺産登録推進に関して「我々は韓国側の反応を理解する」と語った。
つづけて「日本は第2次世界大戦期間中、日本の指導者たちが犯した犯罪行為を、
人類の記憶から消すために、韓国をはじめとした様々な国を相手に持続的な措置をとっている」と指摘。
報道官は「当時、日本の軍国主義者たちの野望に関する歴史的事実、
軍国主義の日本が植民地化した国々から多くの人を鉱山の強制労役に動員した事実を、
どうして否定できるのか」理解しがたいと批判。
そもそも今の韓国において、佐渡金山を知っている人がどれだけいるのか、ロシアも然り。
2010年に日本政府が選定するユネスコの「暫定リスト」に既に登録されていた佐渡金山。
それまで日韓関係において、特に注目される存在ではなかった。
当時の与党は民主党であり、就任したばかりの菅直人総理。
その菅総理は2か月後、時あたかも韓国併合100周年を前に、いわゆる菅談話を発表。
「私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。
歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、
自らの過ちを省みる事に率直でありたいと思います。
痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れる事は出来ないものです。
この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、
ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします」
朝鮮半島からの労働者の多くが動員先の環境に対して不満を有していた事は、
極めて高い逃亡率からも、暴動からも明らかであり、そして管理側は徹底的取締っていたのも事実。
人が亡くなっているのも事実。
それは間違っても、「褒められる話」ではない。
日本人も然り、多くの日本人が労役、こき使われた。何も朝鮮人だけではなかった。
江戸時代も戦時中も、半ば強制的に佐渡に集められた人たちがいる。
本来、世界遺産とは、人類が共有すべきものであり、国と国の歴史ではなく、世界の文化遺産である。
安倍議員はこの問題について、「いまこそ、新たな『歴史戦チーム』を立ち上げ、
日本の名誉と誇りを守り抜いてほしい」と訴えた。
元総理や安倍議員と同じ自民党の高市議員など保守的な政治家が、この問題を、
日韓両国間の歴史を巡る争い、即ち、彼らの言う『歴史戦』として位置付た。
敢えて火をつけたのだ。
収まるものも収まらなくした。
当時の菅総理の言うように、謙虚に受け止めて申請すればいいだけのことだ。
戦争の悲劇が世界遺産になっている場所は世界中に沢山ある。
韓国や日本といった、特定の国家や民族の「名誉と誇り」に関わる問題として矮小化するのは、
世界遺産にふさわしくないどころか、的外れで迷惑な行為だ。
安倍議員は常々臭いものに蓋をして無きものにしようとする。
しかし、佐渡金山の全ての歴史に向かい合うことで、先人たちの軌跡を伝えることができる。
そうでなければ、国際社会での説得力は失われる。
安倍政権下、どれだけ日本の価値が下がったか、安倍議員は永遠に理解できないようだ。
ユネスコは2008年「文化遺産の解説と展示に関するICOMOS憲章」で、
「解説は、遺跡の歴史的・文化的意義に貢献したすべてを考慮に入れるべき」
「解説プログラムの策定にあたっては異文化的意義を考慮すべき」とした。
つまり、その遺産の歴史の一部を切り取るのではなく、明治産業革命遺産では、
当時行われた「強制労働」も含めた「全体の歴史」を「解説」することを求めた。
戦争のない社会を展望し未来に承継すべき世界遺産は、その「負の歴史」の記載が不可欠なのだ。
佐渡鉱山には金山としての歴史的価値だけでなく
三菱財閥が経営していた九州・北海道の炭鉱と同様、強制労働の歴史が刻まれている。
その歴史が語られなければ世界遺産として普遍的価値を欠く。
管理側の資料だけを鵜呑みにして判断するのもいかがなものか。
佐渡鉱山の労働者の一部は出身によって区別され、島内出身者を「地者」、
島外出身者を「他国人」と呼んだ。
三菱鉱業の技師平井栄一氏が記した文書では、佐渡鉱山に2千人の朝鮮人が動員されたことを明らかにした。
金山での成功の要は、如何に多くの人々を金山に動員出来るかにかかっていた。
部屋頭’(請負人)がいた彼らは事業請負において、鉱山事業主と労働者の中問にあって、
請負賃金を受け取り、また部屋頭として食料費、物品販売から、かなりの利得を得ていた。
部屋頭は配下鉱夫の生活全般についての世話監督をしていたのみならず、
鉱山に対して坑夫の身元保証をし、また作業の受負人ともなった。だから逆らうことは出来ない。
外国人技能実習制度を悪用する雇用主と同じような構図だ。
今の時代でもあるのだから、当時の環境ならもっと酷かったことは想像に難くない。
1899年7月に佐渡鉱業所の鉱山労働者が労働争議をおこした。
1900年3月にも600名余が労働争議をおこした。1917年3月にも賃上げを要求して同盟罷業がおこった。
また、1922年5月にも650名の鉱山労働者が参加する大労働争議がおこった。
1931年における佐渡鉱山労働者の姿を、星政之助は「俺達の唄を」と題し、記録している。
「佐渡の金山御国の宝 何時も黄金の花が咲く壊小長屋から鉱山へ
青白い労働者の行進曲 唄はまだ明けやらぬ相川の海に拡がる
ここに千人の生活は固り 目もあてられぬ 地底の労働労働者は入れ替り亦入れ替り
長い年月ここに×菱の王国のデ角を築き上げ鉱山の唄は日毎に響くが
その唄は俺達の唄だろうか?地下一千尺の坑道で命の綱のカンテラで
囚人の様にツルハシを振ふ労働者今日も『よろけ』で弊れた
二番坑の労働者不死身のおいらは日毎によろけ『よろけ』ては紙屑の如く捨てられる
おいら奴等は決してそれを顧みない」
1日約1千名の労働者が「よろけ」(珪肺)の恐怖の中で、地底の労働に従事する状況が描かれている。
1937年7月の慶溝橋事件により日中戦争が全面化すると、佐渡鉱業所は金増産・鋼増産のために、
朝鮮人男性を労働者として大量に動員した。
1939年7月日本政府は朝鮮人男性を日本の鉱山、炭鉱、土木の三分野に限定し、
労働者として動員すること決定した。
1939年度の朝鮮からの労働力導入は8万5000名に決定した。
当初は各企業による「募集」の形式を取っていたが、
1942年7月から「労務協会斡旋」に変更し、1944年9月から「徴用」によった。
これらは日本政府と朝鮮総督府が密接に連携し、国策として遂行された。
1944年7月7月13日に一行の入山式が佐渡鉱業所の「協和会館」で行われた。
入山者代表「大海昌根」(33才)は「大東亜戦に勝抜くためこの山と運命を共にし
決死増産に挺身敢闘せん」と宣誓した。
佐渡鉱山には朝鮮人以外に、日本人の学生や「勤労報国隊」も数多く動員された。
1943年8月に「学徒勤労令」が出され、勤労動員は本格化した。
佐渡鉱山には相川中学校、相川高等女学校学の生徒が動員された。
仕事の内容は、工作場では鉄屑整理、鋳造物の運搬、キューポラに入れる石や粘土運び、
酸素ボンベ運搬などだった。
(石見銀山)
無きものにするのではなく、あったことを真摯に受け止めなければ、
それは、先人を愚弄することにもなる。
佐渡の飛び魚のクサヤはうまかった。