政治・経済、疑問に思うこと!

より良い日本へ願いを込めて。

​「つい過激な発言をしてしまうひろゆき」のたった1つの特徴。

ひろゆきし(西村博之)が、「ブレイクの秘訣」を明かし、「どうすれば影響力を持てるのか?」

「口のうまい人がトクする世の中で、どう生きるべきか?」などを語った。(構成:種岡 健)

過激なことを言う人は、「サービス精神が旺盛である」ということが言えます。

当たり前のことを当たり前に話しても面白くありません。

そこで、どんな例えを持ち出すか、どんな角度からものを見るかが、問われてきます。



目の前の人を楽しませたい。自分に求められている発言をしておきたい。

そういう欲が少し出た瞬間に、人からは「過激だ」と言われるようなことを言ってしまいます。

でも、考えてみると、そこに「悪意」はないんですよね。

「たとえば、人が死んだら……」

と発言をしたときに、本当に人を殺しているわけではありません。

「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」というブラックジョークもあります。

これだって、別に本当に赤信号を無視しているわけではない。

そこの想像力が欠けて、一部の発言を切り取って叩くことが、今の日本では蔓延してしまっています。

もし過激発言で炎上したくないなら、ファンサービスをしないことですよね。

目の前の人が退屈する真面目な話を延々とすれば、そうやって過激な発言が出てくることはありません。

そういう刺激がない社会を選びますか?

それとも、極端な考えを知った上で、「まあ、それはないよな」と、自分の頭で判断できる社会を選びますか?



‘@サービス精神旺盛な人が会話でたまに本音を漏らすことはあるが、

過激な発言とサービス精神旺盛とは違う。

過激な発言をしなくてもサービス精神旺盛な人は沢山いる。

わたしは真逆だと思う。

過激な発言をする人は自分を認めてもらいたい。

過激な発言をすることによって、炎上などすれば自分の存在を認識することが出来る。

それを価値と勘違いしている。



過激な発言は時として人を傷つける。

そういうことを平気でする人にしか過激な行動は出来ない。

本当のことだとしても言っていいことと悪いことがある。


話はテクニックの問題で、過激な発言をしなくても面白い話はいくらでもできる。

漫才と一般的な会話は別物。

漫才のネタだから許されるのであって、コメンテーターが「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言えば謝罪の羽目になる。

漫才ネタで叩く人はそうそういない。

人を殺すような発言を公でする人が糾弾されても然るべき。

それを、極端な考えを持った人を自分の頭で判断できる社会と逃げる。

そう言われた高齢者の気持ちが理解できない。


人を殺すような発言を擁護するひろゆきしらと、それはないよなと自分の頭で考えて非難する社会は健全だ。

相変わらず極端発言で、自ら過激炎上型人間と公言している。

そして、変わらずの混ぜご飯論法で何もかも一緒にして話し、区別がない。

TPOを弁えないということが前面に出ている。