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​「スポーツには人命を救う力はない」

医師が五輪礼賛ムードに抱く底知れぬ怒り!

医療現場からはまるで異次元の世界!



(違約)

医師からは五輪の熱狂が異次元の世界に見える。

私は診療所の医師であるし、主たる業務は訪問診療だから、発熱外来も担当しているとはいえ、

新型コロナ感染者の治療全般を担っているわけではない。

しかし自分が診察した患者さんからの陽性確認を、今まで経験したことのないハイペースで、

次から次へと実体験している私にしてみれば、開会式後から手のひらを返したように、

五輪礼賛ムード一色となったテレビ番組を観るにつけ、

まったく異次元の世界に来てしまった感覚に陥らざるを得ないのである。

無邪気に熱狂している人たちにとって、コロナは、じっさいに自身が感染を経験したわけでもなく、

感染した人に接したこともなければ、現実でない異次元の出来事に思えてしまうのかもしれない。

そもそも今回の五輪招致は、国民の共感を喚起するために、

復興五輪という大義名分が与えられたが、その本質は原発事故を覆い隠すためのもの、

と言っても過言ではない。

事故は発生から10年たった今なお収束のメドすらつかず、故郷を追われた人々も、

いまだに数多く取り残されている。

五輪を開催にこぎつけ、日本人選手の活躍によって多くのメダルが獲得できれば、

これら政府にとって不都合な負の記憶は多くの国民の脳裏から消し去ることが可能となる。



じっさい、アンダーコントロールという虚偽の言葉を公然と安倍晋三前首相が用いても、

招致が成功したことで、この明らかな虚偽がまるで真実であるかのようなお墨付きを、

国際的にも得たことになってしまった。

「復興五輪」がいつの間にか姿を消し、次には「コロナに打ち勝った証し」が、

そして打ち勝てないことが明白になると、今度は「コロナと闘う姿」や

「困難を乗り越えて成功させる」という、スピリチュアルな世界に日本政府は迷入していくことになった。

公明党石井啓一幹事長は「現在の感染者数は2週間前を反映しているのだから開会とは関係ない」

と発言し、五輪と感染再拡大は無関係との認識を強調した。

むしろ多くの人が自宅にこもってテレビで観戦することで、人流を減らすことができるなどという、

奇妙な五輪擁護論まで出てくるようになってきた。

感染者急増と医療資源枯渇という「事実」と、国内外から多数の人を首都圏に呼び込む、

世界的イベントが行われている「事実」、これら2つの厳然たる「事実」が、

同時に首都圏に併存しているという「事実」さえあれば十分なのだ。

そしてこの2つの事実が併存することによって、

感染制御と医療が五輪開催によって妨害されている「事実」も生じる。

この事実の存在こそが、私も含め多くの人が開催中止を訴えてきた理由である。

では五輪開催は、医療と感染制御にいかなる妨げをもたらしているのだろうか。

すでに多くの識者の指摘もあるが、政府の言動の矛盾がその最たるものと言えるだろう。

緊急事態宣言を出し不要不急の外出をするなと国民の行動制限をしておきながら、

国内外から多くの人を呼び込み、あげくに五輪関係者の行動制限は形ばかりのものとしていた。



飲食店での酒類提供を制限させておきながら、競技会場の中ではアルコールを提供しようとしていた。

これらの「五輪は特別」というメッセージは少なからぬ人たちに、

「五輪がよくて、なぜ私たちは我慢しなければならないのか」という気持ちを芽生えさせた。

熱中症と新型コロナでただでさえ逼迫する医療現場に、

さらに余計な負荷をかけているのが東京五輪なのだ。

#オリンピックは関係ない という人たちの思考からは、

こういう医療提供体制への視点と配慮が完全に欠落している。

日本人選手が金メダルを多数獲得しようが、素晴らしいプレーが感動を与えようが、

逆境を跳ねのけて出場した選手が希望をもたらそうが、これらの事象には、

私たちが現在直面している新型コロナ感染急拡大を抑止する能力も効果も一切ない。

人命を救うことももちろんできない。「スポーツの力」など、今の状況ではまったく無力なのだ。

先の戦争、私は当事者ではない。しかし歴史を学べば知ることはできる。

何度も踏み止まったり引き返すことができた時点があったにもかかわらず、

批判や懸念の声はかき消され、結果、わが国は多くの尊い人命を失った。



「私、本当は今回の東京五輪には反対だったんです。

でもいざ始まったら連日のメダルラッシュに胸が熱くなった。選手たちを応援しよう!」

と開会式後に言い出した人と、かつて戦時下で「私、本当は今回の戦争には反対だったんです。

でもいざ始まったら連戦連勝に胸が熱くなった。兵隊さんに感謝しよう!」

と手のひら返しをしたといわれる人に、私はまったく同じメンタリティを見る。

当然ながら五輪と戦争は別ものだ。同列に語るべきではないとの声も知っている。

しかしそのどちらも国の威信や愛国心という、統治者にとって国民をコントロールするにあたって、

極めて有用な「装置」をその根底に孕んでいる。

「選手は悪くない」「選手を批判するのは違う」との言葉もよく聞かれる。

たしかに選手には五輪開催の適否を決める権利も手段もないかもしれない。

しかし選手もアスリートである以前に、ひとりの人格ある人間である。

意思表示を行う権利も手段も有している。猛暑やコロナ禍の中での五輪開催について、

不安や不満をひとりの人間として発言することはできたはずだ。

今からでも発言してもいいはずだ。心の中にそうした不安や不満があるにもかかわらず、

それを自由に発言することのできない「空気」が彼らを覆っているとするならば、

それは戦時下となんら変わらない。

「やると決まったからには、自分のできることを全力でやるだけです。

日の丸を背負って」という選手たちの言葉、それを無批判に絶賛する声が、

開会式というほんの数時間のイベントを契機として急増してしまう群衆のメンタリティ。

敗戦の日」を目前にして、こうした選手たちの姿を出征兵士の姿に重ねあわせて、

底知れぬ恐怖を感じる私は、妄想におかされた、ややこしすぎる人間だろうか。


木村 知(きむら・とも)医師・医学博士